「こころ」 夏目漱石  「人間関係の実況中継」


 

 「こころ」夏目漱石 角川文庫

今、私のヨガ仲間で話題の「こころ」です。

なので、「こころ」をこころして読んでいます。スイマセン。

 

わたし夏目漱石を読むと、スッキリするんです。キラキラ~☆精神的なデトックス。

 

 漱石さんは、私たちの日常の、空気を乱さないようにするために、自分を抑制するちょっとしたストレスとか、自分自身の「うつわ」を突きつけられたような、小さいイライラを、具体的に小説に織り込み、なおかつ、私自身も気が付いていなかった不快感やストレス形態までも描写してくれるので、読書しながら自分の経験を思い出し、整理できるのです。

 そうすると、もやもやが消えていきます。

 

 この人の記憶力と人間関係の描写力は、カッチカチのすご腕だと思います。ええ、私が言うまでも、ありませんが。。。。

 

 「物語」というよりも、「人間関係の実況中継」ばりに丁寧です。

 

 なかでも「こころ」は、こまかい日常的な心理というよりも、「正義感」「まじめさ」「素直さ」がキーワードの、人間タイプ別、心理の実況中継だと思います。

          自分の中の「善」と「悪」の葛藤。

 

 「私」 若いゆえに真面目である。世間に出ていないから、汚れていない。

 「先生」真面目だったが、伯父との関係などから、徐々に汚れていく。これ以上汚れ     たくないから、世間との関係を絶った。

 「K」 真面目分野の天才肌。まっすぐすぎて、汚れる前にポッキと折れた。

 

    女性たち:ひと癖あります。同性として、深読みしたい部分です。

 

おひさの胸をぐっと掴んだ付箋ポイント

 

上 「先生と私」

三十一

p90


 先生はあきれたといったふうに、私の顔を見た。巻煙草を持っていたその手が少しふるえた。
「あなたは大胆だ」
「ただ真面目まじめなんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」
「私の過去をあばいてもですか」
 あばくという言葉が、突然恐ろしいひびきをもって、私の耳を打った。私は今私の前にすわっているのが、一人の罪人ざいにんであって、不断から尊敬している先生でないような気がした。先生の顔はあおかった。
「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果いんがで、人をうたぐりつけている。だから実はあなたも疑っている。しかしどうもあなただけは疑りたくない。あなたは疑るにはあまりに単純すぎるようだ。私は死ぬ前にたった一人でいいから、ひとを信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたは腹の底から真面目ですか」

 

 

 「やぼ」だし、そんなこと言われたら「引くよ~」ってな状況になろう昨今の人間社会とは、一味違う。

          「あなたは、腹の底から真面目ですか?」

 ここを読んで、ちょっと恥ずかしくなりませんか?

 いや、先生はこの言葉に命を懸けたんですから、笑えないのです。

「私」が正面から挑んできたので、「先生」も、正面から答えようとした。

 

「私」は、若いから、まだそれほど「真面目さ」に目覚めていないと思うけど、「先生」は、「真面目な性質」なのに、世間によって汚されてきたから、「私の真面目さ」を無視することはできなかった。不安を覚えつつ、賭けたのですね。

真面目ゆえにごまかせなかった。。。。やっかいなこっちゃ。

 

 私は、基本的に、人間ならば、本当は、真面目に生きたいと思うのが、自然なのではと思います。

 しかし世の中は、必ずしも「真面目」だからということで、認めてはくれない。

 もっと、要領をよくし、状況によって対応を変え、相手によって加減を変える。

 決して、不真面目だったり、犯罪者にはならないが。。。。

 ただ、摩擦を避けるために、自分の「真面目」な部分を削り、ごまかしながら汚れていくのが、「成長」と言われる。

  「真面目」なのはあたりまえで、それ以上のことをしなければ、世間は評価してくれない。世間の要求には、逆らえません!

 しかし、そういう、できもしない概念が、不真面目の頂点なのに。。。

 だから、がんばらないといけなくなる。

 すると、いつのまにか、自分の「真面目」な部分がどんどん削られ、終いには消えていた。。。。となる。。。。

 その状態は、まるで自分を見失ったようなもではないのか。

 この話にでてくる人々は、幸いにも、そこまでの人はいないと思います。

 

  「もっと真面目に生きたい!」という私の欲求を、この小説は容認してくれる。

 少なくとも、そういう気持ちをバカにすることはない、漱石先生の、これまた「真面目な」問いかけだと思います。

 

  青空文庫で無料で読めます。

 iPhoneだったら、iBooksに入れて、買い物のレジ待ち時間とかに読むといいです。

 私は、そうしていました。

こころ

こころ

 

 

 

 

 

 

ヨガは捨てる旅

 ヨガの精神的な部分の理解に必要な、インドの経典「バガヴァッド・ギーター」という本があります。

 それは宗教本というよりも、仏教に近い、哲学本だと思われます。

 日本語で読む仏教本は、インド→中国→日本と連想ゲームのように伝わったので、「本当にブッタは、そう言ったのか?」という疑念が私の中でくすぶり、どうも愛せないのでが・・・・。

 

 一方、「バガヴァッド・ギーター(以下、ギーター)」は、インド→日本と訳されていますし、私が読んだこの本は、現代の女性が訳しているので、読みやすいです。

 

 「ギーター」は、「『自我』をなくし、真の存在に近づく」ということを言ってるののかな、と今のところは思います。

 

 「自我」とは、個性とか「大切な自分」などと似ていて(同じか?)捨てがたいものですが、実際はその「自我」があらゆる「没頭」を邪魔して、人間から幸福観を奪っているのだと、私は思います。強く。

 

 それは、現代の「自我」とは、社会性が絡んでいるので、いろいろな不純物が混じっていて、偽物の自我になっていると思うからです。

 

 思いこまされている「自我」ではないのかな?と思うのです。ややこしい。。。

 

 もう少し具体的に言うと、そうした「自我っぽいもの(ニセモノの自我)」は、資本主義社会の刷り込みとか、人間関係における抑圧とか、実際はそんなものから発生していて(自然に自分から発生しているものではない)、その「欲求」を満たせばすぐ忘れてしまう、まさに「消費自我」にすぎないのではないのかと思うのです。

 

 「良く見られたい」「あれが欲しい」「あそこに行きたい」「あれがしたい」、「あれもしなきゃ」「これもやっとけ!」というただの「欲求」が自我っぽく認識されて、生活は「没頭」どころか、逆に「拡散」する一方ではないでしょうか。ああ、忙しい。。。

 

 だから「自我っぽい欲求」を押し殺さなければ、人は幸福になれないと「ギーター」は言っているのだと思うのです。

 

 ヨガは、呼吸法、足の位置、手の位置、意識する内臓や骨格の場所、目線を置く場所、等々、細かく決まりがあります。マニュアル人間製造マニュアルです。

 

 その決まり通りに意識を変化させたり、体を動かしていくと、自分でも不思議なくらい足が開いたり、ありえないポーズをしていたりします。「お、得したな☆」と思う瞬間です。

 

 ヨガは、「決まり通りにやっていけば、いい結果が生まれる」という、現代社会では「マニュアル人間か!」と思われそうなネガティブな概念を、まず(とにかく)自分に埋め込むのが第一段階だと思います。言われた通りに黙ってやれば、できる。を埋め込む。

 

 それが「ヨガの叡智を脳で吸い上げ、正確に体に指令する」ということで、その行為を繰り返す時間は、必死ですから、邪念はなく、自我もなくなるはずです。

 

 その時間が長くなればなるほど、「自我っぽい欲求」から解放される時間も長くなり、自分自身が変わることができる、のではないかと思います。

 

 まとめると、

 「自我っぽい欲求」が発生したら、いちいちピンポイントで、それを殺そうとするのではなく、「自我っぽい欲求が発生しない体質」に自分を変えるのが目的ではないかと思います。

 

 いちいち反省する毎日を送るのではなく、自分を変えちゃえ!ってことです。反省する材料を手放せ!諦めろ!!ということです。

 

 インドでは、「知性」という概念が、日本とは真逆で、日本の「学ぶ(足す)」ではなく、「一枚一枚脱いでいくこと(引くこと)」、脱いで行った、つるつるの状態を知性と認識しているそうです。

 

 ややこしいけど、いろんなものを捨てて、捨てて、死後に残ったものが自分だよ。ってことかな。

 

 

 

 

 

アウトプットしてこそ、文武両道

 これから、いまさら、ブログを書いていこうとしています。

 

 でも、「いまさら」ではないようです。

 

 この頃は、SNSに疲れたり、飽きてきた人もいるらしく、ブログに人々が帰ってくるのではないか?という話を聞きました。

 

 私も、そう思います。

 

 2011年3月11日 東日本大震災 から、直観と興味の赴くまま本を読み、考え、ひたすらインプットをしてきたけど、どうアウトプットをすればいいのか、わかりませんでした。

 その一歩として、3年経った今頃から、解放作業をしていこうと思います。

 

 とにかくやるぞ!体育会系で!ふりきれ!おひさ!!